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2015年6月19日金曜日

ルノアールの晩年

ルノアールは、本国のみならず日本人にとっても非常に人気のある画家で知らない人はいない。私も印象派の画家は総じて好きなのだが、ルノアールはその中でもゴッホ、モネに並んで特に好きな画家である。大昔に読んだ伝記で、多分中学生の時、ルノアールは晩年手足が不自由になっても、指に筆をくくりつけて死ぬまで絵を描いたというのを記憶していた。余程絵を描くのが好きでないとできない事で、凄いものだと印象に残っていたのである。山田風太郎人間臨終図鑑の4巻を拾い読みしていて、ルノアールの項を再読した。それを読んで、手足が不自由になる事変形リューマチに罹患していた事であるのを確認したのである。

Wikipediaからの記事をまづ引用する。

ピエール=オーギュスト・ルノワール
Pierre-Auguste Renoir

1875年頃撮影
生誕1841年2月25日
フランスの旗 フランス王国, リモージュ
死没1919年12月3日(78歳)
フランスの旗 フランス共和国, カーニュ=シュル=メール
代表作
  • 『ロメーヌ・ラコー嬢の肖像』
  • 『アルジェの女』
  • 『ぶらんこ』
  • 『舟遊びの人々の昼食』

ルノワールのサイン

ムーラン・ド・ラ・ギャレット
1876年 オルセー美術館


ピエール=オーギュストオギュスト・ルノワール(1841年2月25日 - 1919年12月3日)

フランスの印象派の画家である。後期から作風に変化が現れ始めたので、まれにポスト印象派の画家とされることもある。
風景画、花などの静物画もあるが、代表作の多くは人物画である。
初期にはアングル、ドラクロワなどの影響を受け、モネらの印象主義のグループに加わるが、後年は古典絵画の研究を通じて画風に変化が見られ、晩年は豊満な裸婦像などの人物画に独自の境地を拓いた。日本など、フランス国外でも人気の高い画家である。

ここで書きたいのは、どうして変形リューマチになったかのと言う理由と、病が昂進してからの彼の晩年の様子である。どんな苦痛の最中にあっても、真に好きなことがあれば生き続ける勇気が湧いてくるという実例のお話である。

晩年の自画像



人間臨終図鑑から引用する。

1879年夏、38歳のときルノアールは、驟雨のあと自転車で出かけて水たまりにころび、石の上に倒れて右腕を折った。・・・ この骨折が彼の後半生を苦しめた難病のもととなった。

以来、その後遺症として起こった変形リューマチは、間歇的に烈しい発作を起こしたり、あるいは陰湿な痛みを持続させたりしながら、徐々に彼の右手を、さらに四肢を蝕んでいった。60歳のころには、彼は歩くのに二本の杖を必要としなければならなくなった。

39歳の作品。私の最も好きな絵画。子供の頃、家に飾ってあったのだ。

イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢 1880年


次いで好きな作品で、これは病になる前の作品。

ジャンヌ・サマリーの肖像 1877年。



二人の姉妹(テラスにて) 1881年 まだ病の影響の少ない元気な頃の作品。


後は私の趣味で、裸婦ばかりになるが、50歳以降の病に苦しんでいる頃の作品。

浴女  1892年



泉による女  1895年

眠る浴女 1897年

水浴の女たち 1910年頃  65歳を既に過ぎたころの作品


浴女たち  1918年 77歳の時の作品。

 
 

1918年の写真。77歳の頃。右手も左手も完全に変形してしまっている。その上、肺病持ちであった。 しかし、彼の眼の光を見てほしい。


彼の次男のジャンは有名な映画監督であるが、ジャン「父のおもいで」として書いたエッセイにはつぎのように書かれている。

ジャン・ルノワール(Jean Renoir)


彼の手は恐ろしく形が変わっていた。リューマチが関節を動かさなくし、そのため親指が手のひらに向かって曲がり、指が手首のほうへそっていた。そのことを知らない訪問者は、この畸形から眼を逸らすことができなかった。
・・・・・
自分の知覚ののろさが、時々、彼をいらだたせた。
・・・・・
私は、ルノアールののろさが、ただ相対的なものであり、彼が信じられない速さで仕事をしたことを読者に思い起こさねばならない・・・・。

ルノアールの罹患したのは症状から、関節リウマチと考えられる:

関節リウマチ(かんせつリウマチ、Rheumatoid Arthritis:RA

自己の免疫が主に手足の関節を侵し、これにより関節痛、関節の変形が生じる代表的な膠原病の一つで、炎症性自己免疫疾患
しばしば血管、心臓、肺、皮膚、筋肉といった全身臓器にも障害が及ぶ。


実際に膨大な作品群を彼は残している。そう見えなくとも驚くべき速さで、死ぬまで絵を描きつづけた故である。ルノワールの作品総目録(カタログ・レゾネ)は現在編集中だが、4000点は下らないだろうと言われている。

彼の経歴については、 ルノワール に任せることにして、晩年のエピソードを幾つか述べたい。

やはり人間臨終図鑑より、

ルノワールが66歳のころ、彼の胸像を作ったマイヨールの言葉:

「彼は口とよべるようなものは持っていなかった。唇はダラリと垂れて、見るも無残な有様だった」

コレットと呼ばれる家で、毎朝、折り畳み台に寝かされたまま二階のアトリエに運び上げられ、エア・マットをしいた椅子に座らせてもらう。パレットを膝においてもらい、厚手の包帯で包まれた人さし指と親指の間に絵筆をさしはさんでもらう。そして描き始める。苦痛にゆがむ彼の手は、しかしカンバスの上に寸分狂いのない豊穣な傑作を作り出してゆく。


再び「父のおもいで」より:

その最期:

死の朝、彼が描いた最後の絵において、パレットからほとばしり出た豊かさは圧倒的である。肺患が進んで、はきだされる病菌のため、彼は部屋に閉じ込められていた。彼は絵具箱と絵筆を要求し、アネモネを描いた。・・・・・幾時間、彼は花と一体になり、苦痛を忘れた。それから、だれかに絵筆をとってくれるような動きをし、こう言った

「やっとなにかがわかりはじめたとおもうよ」


絵を描くということに全身全霊をつくした人の言葉です。常に学ぶことにより、深い理解が得られるようになる。

手持ちの画集より、アトリエにて女中のグラン・ルイズと共に。



アネモネ 1900年  (最後の絵ではない。)


苦痛に耐える事の必要性と祝福を意味するように思える。 今回は、これでおしまい。

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