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2015年11月4日水曜日

桜井 檜原神社

山の辺の道 桜井編の7回目。今回は、檜原神社を中心にしての、山の辺の道の紹介。

玄賓庵を出たすぐのところに、仏塔を祀っている一画がある。玄賓庵の管理下にあると思えるが不明。


ここから7,8分歩くと、檜原神社に到着する。神社脇の入り口に出るのだが、そこにある柿本人麿の歌碑。



古の人の 植ゑけむ 杉が枝に 霞たなびく 春は来ぬらし

徳川宗敬揮毫とされている。この方を存じあげなかったが、水戸徳川家の末裔で、農学博士である軍人で、政治家で神職もお持ちであった。 Wikipediaより、引用

徳川 宗敬(とくがわ むねよし) 1897年5月31日 - 1989年5月1日)

徳川宗敬と幹子夫人

日本の林学者、陸軍軍人、政治家、教育者、神職。階級は陸軍少尉。位階は従三位。勲等は勲一等。爵位は伯爵。最終学歴は東京帝国大学農学部林学科卒業。学位は農学博士(東京帝国大学)。

すぐ脱線するが、もとに戻そう。

檜原神社はやはり、大神神社の摂社である。 



鳥居   立派な縄鳥居です。 



檜原神社
  • 御祭神天照大神若御魂神 

伊弉諾尊・伊弉册尊




檜原神社由緒書



この神社には、拝殿も本殿もない。三輪山がご神体なので、本殿なしは分かるが拝殿もないと神社のような気がしないが、その代わりに三つ鳥居が建っている。因みに、現在は山中の 磐座( いわくら )がご神体である。


三つ鳥居はたまに見かけるが、このように格子入りなのは珍しいように思う。



天照大神伊勢神宮へ遷した後の神社は「 元伊勢 」と呼ばれている。この檜原神社もその一つ。



同じく柵で囲われた神域内に祀られている豊鍬入姫宮大神神社の末社になる。




御祭神: 豊鍬入姫命      

第10代崇神天皇の皇女で、天照大神の宮外奉斎の伝承で知られる巫女的な女性である。画像は見当たらず。
 





お休み所と社務所

 


 境内にある歌碑

春がすみ いよいよ濃くなる真昼間の なにも見えねば 大和と思え
 
佐美雄
 


またも脱線だが、この歌碑の作者が判明した。前川 佐美雄で、著名な歌人でした。勿論存じ上げていません。 Wikiにも記載がある。前川 佐美雄


祓所



北白川房子様の歌碑



その説明板

 
立つ石に 昔をしのび をろがめば 神のみいつの いらちこにして

北白川房子様の画像が見つかりました。


不幸にも負けない、立派な皇室の御婦人であったようです。成久王妃房子内親王

 手水舎  屋根はないけど、やっぱり手水舎と言うんだろうね。


 
 境内全体の様子
 

 

 

鳥居の前には、桧原お休み所があり、ここでソフトクリームを食した。喉が渇いていたので、殊の外美味しかった。椅子に座って食べたのだが、70代前半と思しき爺さんがいて、お酒を飲んでとてもご機嫌で話かけてきたのだ。その爺さんは、運動がてらここによく来るらしく、山の辺の道の話などよもやま話を伺った。大体は薀蓄話だが、亡くなった義理の母のため狭井神社のご神水を持ち帰ったという話が妙に記憶に残っている。亡くなる前に、ご霊水を飲みたいと言ったそうだ。


私もこの爺さんのように、散歩後に酒を飲んで人を掴まえてはムダ話をして、夕方に家に帰るというような生活をしたいものである。無理っぽいがね。


 檜原神社をでて、山の辺の道を歩く。15分程で大和の青垣にでる。


この一帯は古くから青垣山と呼ばれていたことから大和青垣の名を冠している。昭和45年に国定公園の指定を受けている。

その風景



奈良だけあって、柿の木が多い。

柿本人麿の歌碑

痛足川(あなしがわ) 川波立ちぬ 巻目(まきもく)の 
由槻が嶽(ゆつきがたけ)に 雲居立てるらし


揮毫は、棟方志功 。やはり独特の書ですね。


ここで、舗装された自動車道に入ってしまった。山の辺の道の一部とはおもうのだが・・・。
その道路沿いの景色。

常夜燈と小さな地蔵堂




竹林

これも小さな地蔵堂

景行天皇巻向日代宮跡の石碑


その説明板

 この場所に祀られている小さな石灯籠



巻向遺跡  古代都市の様子を示すパネル。


現在は、見渡す限り田圃が広がっている。この中央部に、日代宮があった。



その後相撲神社へ向かうわけだが、この神社紹介は次回にまわす。 桜井編の8回目につづく。

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