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2015年4月29日水曜日

長崎旅行記 IV  軍艦島後篇

今回は、軍艦島の後篇である。 長崎旅行記 III  軍艦島前篇

上陸記に入るまえに、軍艦島の観光パンフを挙げる。六つ折りの一枚物である。


島の暮らし、端島の歴史、炭鉱の仕事、島の仕事についての説明がある。

裏面は、廃墟となった建物の説明。




軍艦島コンシェルジュの作成した宣伝動画。事前にこの動画を見ていたらと思った。


007チョコ・ココの冒険・著作権フリー


地図を拡大する。


の部分が、上陸して見学できる場所である。第1見学広場から第3見学広場まで三ケ所ある。
写してきた写真と説明書に沿って解説する。

ドルフィン桟橋に降り立ってから、第1見学広場に集合した所です。

右に小さく並んで見えるのは、右に見えるのは、べルトコンベアーの支柱である。石炭を貯蔵したり運搬船に積み込む時に用いたとある。その奥に見える建物が端島小中学校。前回、海からの写真をアップした。 

 
(前回の写真)

この四角い建造物が、水洗機ブロアー室。石炭を選別する装置が置かれていたそうだ。



右端のピンクのTシャツを着ている方が、ガイドの浜口さん。上手なガイド説明でした。外国の方にも時折英語で話していた。コンシェルジュガイド案内より。


浜口 剛(はまぐち つよし)
長崎学の泰斗:ブライアン=バークガフニ教授に師事し、トーマス=ブレイク=グラバーの研究を行う過程で、帝国主義世界における軍艦島の歴史的意義を認識した。軍艦島は朽ち果てていくにすぎない過去の遺物なのではなく、現代を生きる我々が再び経験するかもしれない「未来像」。その滅びの美学を芸術の観点からも異なる切り口で表現していきたい。

 
 

ガイドのアシスタントは、お2人の女性。手にした関連写真集を両手で上に掲げて見せてくれていた。



第1見学広場から見た風景。


崖上に見えるのが、貯水場跡

崖の上に建っているのは、3号棟で幹部職員用の社宅である。やっぱり一番見晴らしも良い訳だね。社宅のなかでも3号棟は特別で、室内風呂も設置されていた。この棟以外は家の中にお風呂はなく、ほとんどの島民は公衆浴場を利用していたとある。

中央左端にある土台だけが残っているのは、粉炭を選別する浮選機室の跡である。


奥に見えるのは、端島小中学校。1958(昭和33)年に建てられた7階の建物である。1~4階が小学校、5,7階が中学校になっていた。給食を運ぶ島で唯一のエレベーターもあったそうだ。アシさんが手に掲げているのは、当時の小中学校の写真。



ピントが合わなかったが、下請け業者用宿舎であった30号棟。


つぎに第2見学広場。

写真中央に見えるのが、第2堅坑坑口桟橋跡の階段。炭鉱夫はこの階段を使い、エレベータに乗り、海面下600mまで降りて石炭を掘り続けていた。採掘作業は最終的に海面下1000m以上の地点にまで達した。すごいものですね。


 

レンガ造りの建物は炭鉱の総合事務所として使われていた。この事務所内には炭鉱員のための大きな共同浴場があった。浴槽はいつも真っ黒だったそうだ。鉱員たちは作業後に着衣のまま海水を沸かした風呂に飛び込み、それから真水が利用された上がり湯に入った。


その周辺は、このように瓦礫の山である。



天川(あまがわ)という接着剤を用いた石積み工法の堤防が左向こうに見えている。台風でコンクリート堤防が決壊したりしてこのような状態になっている。天川を使った堤防は島内のあちこちに残っている。(注:天川とは、石灰と赤土を混ぜた接着剤のこと。)


中央奥に小さくみえるのが、肥前端島灯台。この白い灯台は無人島となってから建てられたものである。それまでは人家と炭鉱の灯りが24時間灯っていたため、灯台は不要であった。


 

第3見学広場へ向かう通路からの写真。瓦礫の山の連続である。灯台がメルクマークになっている。



 
 
 第3見学広場前に、一つだけ残っている感じの建物。ここは仕上工場で、炭鉱で必要な物の製作や修理を行なっていた。2階には工場員のための食堂と風呂があったそうである。

 
 
ここが第3見学広場。目の前に見えるのが、
先ほどのピントの合ってない写真の、30号棟である。下請け業者用宿舎
国内最古の鉄筋コンクリート造アパートである。
 
 
崩壊が進み、内部の様子は、この様である。
 
 
上空では、ヘリが周回していた。何だろうねと思ったが、どうやら新聞社の取材のようだ。
 


30号棟の左横にあるのが、鉱員用住居の31号棟である。
 
私が軍艦島に上陸したという証拠写真。

仕上工場を側面から写したもの。


高島町立プール跡。1958年に完成した。通称「南部プール」と呼ばれていた。学校では、潮の流れが速いため海では遊泳禁止だった。そのためプールが作られた。25mプールと幼児用プール。真水が貴重な軍艦島ではプールでは海水を使用していた。
 


鍛冶工場。 炭鉱で必要な器具を製作するために建造された。南側の壁は崩壊している。

 
その崩壊の様子。


見学通路から岸壁を望む。ここにも、コンクリの崩れた破片が散らばっている。

 


 
 見学を終了し、ドルフィン桟橋へと戻る。
 



桟橋からの岸壁風景。奥にみえるのが中之島。

 
かくして、軍艦島と別れを告げたのである。

帰路遭遇した帆船。 日本丸と思える。

長崎港で長崎帆船まつりが開かれているので、この海域に帆船が集結しているのである。




後篇はこれでおしまい。 軍艦島についての、薀蓄記事は別に書く予定である。

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